第3話
飯綱和勝が転校してきてから一週間。彼は持ち前の明るさと人懐っこい態度で、瞬く間にクラスの中に溶け込んだ。彼は文武両道で、誰にでも分け隔てなく親切で優しく、完璧であると見せかけてちょっと抜けたところがあるなんとも魅力的な人物だった。エミ以外のクラス中の女子は高低差あれど彼に好印象を抱いていたし、男子からの評判も悪くなく、所謂一軍と呼ばれるグループの中に所属していた。
エミとの接点は席が前後な為プリントのやりとりと、英語と現国の時間のグループワークだけ。特に飯綱和勝からエミになにかアクションを起こしてくるようなことも無く、平穏無事な日々が続いていた。
七月に入り期末試験に全校生徒が頭を悩ませる中、これは起こった。ちょうどその日は三限までしかテストが無く、早く家に帰れる日だった。次の日の試験勉強の為にエミはいつものように帰宅をしていたが、進行方向に飯綱和勝が歩いていた。
エミは一応文芸部に所属していたが、活動はあってないようなものなので、普段から帰るのが早かった。だから彼と帰り道が被ることがなかったのだろう。
緩やかに歩調を下げて彼に追いつかないように歩く。このまま大きな交差点を超えたら駅に着く。一緒の電車じゃなければいいのだけれど。そう思っていた瞬間だった。
歩行者信号が青の交差点に、物凄いスピードで大型トラックが突っ込んできていた。車の窓から運転手を見るに、意識を失っっている様子でブレーキを踏もうとする様子はない。ちょうど交差点の中には飯綱和勝が居て、驚いて固まってしまっている。このままでは彼は目の前で轢き殺されてしまうだろう。今から自分が走って突き飛ばしても、間に合うような距離では無い。
「クソ……っ」
エミは悪態をつきながら、右手を飯綱和勝の方へ突き出し、短くこの世界のどこにもない言語を唱えた。
トラックが飯綱和勝と衝突する寸前、彼の体は何かよくわからない力によって後ろへ引っ張られ、物凄い勢いで交差点の中を出た。勢い余って彼はドスンと尻もちを着く。トラックはそのまま走行し、右斜め向かいのビルの前の電柱に衝突した。けたたましい衝撃音が響きわたり、周囲を歩いていた人がなんだなんだと集まってくる。誰かが携帯電話で通報をしていた。
飯綱和勝はなにか不思議な力で自分が助かったらしいということを、喧騒のなかでゆっくりと理解した。立ち上がろうと思ったが、足が震えている。あともうちょっとの所で、俺は死ぬところだった。その恐怖がどっと押し寄せてきて、じっとりと嫌な汗が吹きでた。
暫くの間座っていると後ろから声をかけられる。
「あの、大丈夫ですか?」
振り向くとそこには少女が立っていた。同じクラスの蛇塚エミさんだ。あまり話したことは無いけれど、綺麗な人でいつも静かに本を読んでいて、なんだか近寄り難い。高嶺の花って感じの印象のある子だった。
「ああ、ええと、大丈夫」
ようやっと立ち上がり、ズボンに着いた砂をはたいて落とす。格好悪いところを見られてしまったかもしれない。
「なら良いです。では」
彼女は会釈をするとそのまま駅の方へ歩いていった。
どうして俺に声をかけてくれたのだろうと和勝は思ったが、流石にクラスメイトがトラックに轢かれかけていたら声もかけるかと納得した。
エミは心臓がバクバクとしていた。魔法を使ったことが、バレていないだろうか。自分の方へ引き寄せるんじゃなくて、つき飛ばせばよかったかもしれない。しかし、きちんと発動してよかった。咄嗟に魔法を使う事など日常生活の中でないのだ。昔の勘が健在でよかった。目の前で人が死ななくてよかった。そう思いながら早足で駅の方へと歩いた。こんなことが、二度と起こりませんように。
その願いも虚しく次の日も事件は起きた。
掃除の時間の事だった。エミは中庭の掃除をしていて、和勝は3階の男子トイレの掃除担当だった。
男子トイレでは男子たちがふざけて簡易野球のように上履きを投げあっており、それが窓の外に飛び出た。ガサガサと音を立ててそれは不幸なことに、窓の外のすぐ近くの木にひっかかってしまっていて、落ちてくることは無かった。
「あちゃー」
「どうすんべ」
「誰か取りに行くしかねえだろ」
アホ野球をしていた四人はじゃんけんをし、負けてしまった和勝は仕方なく三階の窓から木に飛び移った。上履きに手を伸ばし、掴めたところでそのままトイレの中に投げ返す。
「おい!もう投げんなよ!」
その瞬間である。彼を支えていた足元の枝が根元から折れて彼が落下したのは。
中庭からその一部始終を見ていたエミは、咄嗟にまた魔法を使った。重力操作の魔法である。地面に激突する寸前で、彼にかかった重力を緩和させゆっくりと下ろした。バレないように精密な動作ができたと思う。彼は無傷なはずだ。
「蛇塚さん?」
クラスメイトから話しかけられて、エミの心臓は跳ね上がる。
「…………はい」
「ゴミ集めるからそっち掃いて集めてきてくれる」
「分かりました」
良かった。何もバレてない。
こんなことが何度も続いた。飯綱和勝が日常生活の中で死にかけては、エミがその場に遭遇し助けることが何度も続いた。帰り道で工事現場の鉄骨が降り注いできたり、またもや交通事故に巻き込まれそうになったり、体育館の二階の柵が壊れていて落下してきたり、階段から派手に転げ落ちたり。確実におかしいだろうという頻度で、彼は死にかけた。そして毎回不思議な力に助けられ、そばには大抵不自然に蛇塚エミの姿がある。彼女はじっといつも俺のことを見ている。その瞳には不思議なゆらめきがあった。彼女が自分に対してなにかをしているのではないかという、言いがかりにも近い直感的な疑念が和勝の中に生まれつつあった。彼は一度気になったことは聞かずにはいられない性分である。
「あのさあ……」
期末試験の最終日、和勝は意を決して前の席のエミへ話しかけた。
「ちょっと二人で話したいことあんだけど」
その声にエミの表情は強ばる。それを見て和勝はやっぱり何かあるんじゃないかなと思った。
「なんですか?」
「場所変えてもいい?」
「……どうぞ」
了承してしまったが、エミは内心気が気ではなかった。もしかしたら魔法を使って彼を助けていることが、バレてしまっているのかもしれない。
しかし、そうであるならば、二人きりになるのはこちらにとって都合がいい。みだりに魔法を自分のために使うことはしてこなかったが、今回ばかりは仕方がないだろう。少し魔法で洗脳して忘れてもらう他ない。