第7話 快適な暮らし
小さなジェイミーは、母の足にすがるように隠れた。
母は毅然とした表情を崩さずに、周囲の大人に向けて何かを喋っている。
しかし、聞こえてくるのは周囲の知らない大人たちの潜めた声だけだ。
「スプラウトヴァージュ家のご子息がまさか……」
「エルフがねぇ……」
「この島の領主は、いずれ本国の者を代理に立てるということか?」
部屋の輪郭がぼやけている。ここがどこなのかわからない。揺らめく窓からの光と部屋の端から忍び寄る影。
母が怒っている。断片的な言葉。大人たちの蔑むような眼差し。
――所変わってジェイミーは、芝生の上に立っていた。大きな木の根本に立っている。ここは家の裏庭だ。
「お前、魔法が使えないんだって?」
金髪の耳長の少年が、こちらを嘲笑っている。ジェイミーにはない金色。母方の親戚はみんな髪が金色なのだ。
「恥晒し」
耳を思い切り掴まれ、地面に身体が倒される。芝生と土の匂い。地面と擦れた頬がカッと熱くなる。そしてそれは痛みへと変わる。
流れる時間がゆっくりだった。
「どうして、お前みたいなのが。分不相応だ」
スローモーションで、少年の革靴がジェイミーの身体を蹴飛ばす。
頭と腹を蹴られるとまずい。そう思い、身体を丸める。耐え忍ぶ方法は分かっていた。慣れていたから。
それでも、痛いのは嫌だ。早く誰か助けてほしい。
ぼくの力では、誰にも敵わない。
魔法が使えないから、わざわざこの子は、ぼくを蹴っている。防御障壁も張れない出来損ないには、純粋な暴力で充分なのだ。
なんて不甲斐ないんだろうと、眼前の暗い地面を見ながらジェイミーは思った。
「お前が居なければ、この島だって、この家だって」
「ごめんなさい、ごめんなさい」
赤い髪の小さな少年がうずくまって、涙混じりに許しを請っている。
そんなに一生懸命謝ったって、許してなんかもらえないのに。馬鹿だな。
俯瞰してその様子をじっと、もう一つの視線から眺めていることに気づき、ジェイミーは「なんだ。夢か」と気づいた。
そうすれば、意識が急速にハッキリしていき、自分が寝台の上にいることに気がつく。ぐっしょりと寝汗をかいていて、心臓はバクバクと音を立てて全身が強張っていた。
「嫌な夢」
幼少から現在にかけて記憶に残る嫌だった出来事は、よく悪夢となって現れる。今日見た夢の他にも、屋敷にまだ人を雇って居た頃にされた嫌なこと、街でされた嫌なこと、上げだしたらきりがない。それらが押し寄せてきて、最後は決まって謝罪をしている自分を眺めて目が覚める。本当に嫌な夢だった。
部屋にかけてあるデジタル時計の時刻は午前7時半。睡眠時間は短いが、二度寝をする気も起きない。
ジェイミーは伸びをして寝間着から、適当な服に着替えキッチンへと向かった。
「おはようございます」
「おっ!?!?!?!!?」
扉を開くと、キッチンには先客が居た。
ジェイミーはきゅうりを見せられて驚いた猫のごとく飛び上がり、戸の影に隠れた。
「コーヒー、淹れましょうか?」
その様子をさほど気にせず、カミラは声をかける。
「お、お願いします……」
居候がやって来てから3日経ったが、ジェイミーは未だに屋敷の中の人影に慣れることがなかった。人が居ることは頭で分かっているのだが、ゴーストを見た時のように驚いてしまう。
カミラには初日にキッチン、ダイニング、バスルーム、ランドリーの使い方を説明し、好きに使って良いと言ってある。
だから彼女はこうしてコーヒーメーカーで、コーヒーを淹れているのだ。頭では分かっているが、この数十年の中では異様な光景だった。
スプラウトヴァージュ邸は大変歴史のあるお屋敷ではあるが、使用人を全て解雇したこともあり、40年ほど前から少しずつ東館の改装をして、1階にほぼ全ての居住空間を集約してある。住みやすさ重視で、別棟という扱いだ。
1階にジェイミーの寝室と母の寝室、キッチン、ダイニング、リビング、バスルーム、ランドリールーム。それと、小さな書斎と、サンルームといくつかの空き部屋があるが、あまり使ってはいない。
カミラには2階の客間を使わせている。男女が同じ階に寝室を設けるのは気が引けるのと、1階とは別にバスルームがあるからだ。ルームシェアという状態でも、屋敷が広いので底までの息苦しさは感じない。
食べ物に関しても、冷蔵庫のものは特に申告無く使っていいと言っている。
なにか欲しい物があれば、ネットスーパーで勝手に注文していいとも伝えていた。
ジェイミーはお金への頓着があまりなかったが、カミラはそれに対して、「良くない」と言い、律儀に何を注文したかリストアップしたメモを渡してくれている。
一応学院側から特別支援金だか奨学金だか知よくらないが、カミラの生活費として一定の額が支給されているそうで、それを超過するのはよろしく無いということだ。そのお金はカミラが管理している。
別途ジェイミーには多額の授業料が学院側から払われているらしいが、財産管理は母に任せているので、よくわからないなとジェイミーは思っていた。
この男は自分の口座に入っている、莫大な額のお小遣いを何も考えずに使っているので、お金は減ったら勝手に追加されるものだと思っていた。こういう所はぽやっとした、どうしようもないお金持ちのお坊ちゃんなのである。
「はい。どうぞ」
黄緑色のマグカップを、カミラはジェイミーに差し出す。
「ありがとう。……朝早いんだね」
「この時間には起きて軽く運動をするんです。この屋敷の敷地は広いから、朝日と一緒に庭を見るのが楽しくて、つい走りすぎてしまいました」
そう言われてみれば、カミラの格好はスポーツウェアらしかった。
全く共感できない規則正しい健康的生活に、ジェイミーは目を丸くして感心する。
庭仕事と畑仕事をするので、ある程度の体力はあるが、自分から好き好んで運動はしない。
一生懸命運動をしてみたけれど、ちっとも筋肉がつかなかったのである。自分の体が幼いからかもしれないと思ったが、親戚のエルフは皆柳のように細いので、遺伝的な体質だろう。
「それはよかった。暮らしに不自由はないかな」
「ありませんよ。良くしていただいているので」
カミラは、柔らかい声で笑った。
この3日間でジェイミーはカミラに対して、多少どもらずに喋ることができるようになっていた。
ジェイミーが喋る言葉を考えて沈黙が訪れても、彼女は急かすようなことも、自分の方から口を開くこともなく、辛抱強く続きを待ってくれる。まるで神託を待つ熱心な信者のように。どんな話も興味深げに頷き、こちらを否定することもなかった。
ふたりとも、元気にお喋りをし続けるようなタイプではないが、会話のテンポが徐々に心地よいものへと変化しつつあった。
ジェイミーはそれに少しだけ安心して、緊張が緩和したのである。それでも彼女の方から出てくる言葉数のほうが多かったが。
「電子機器が使えて、Wi-Fiが通っているだけでも雲泥の差です。元の暮らしと近いので、ストレスフリー。そういえば、この屋敷には何故電気が通っているんですか? 東側の地区から外れるにつれ、無い方が当たり前と聞きますが」
何の気なしに尋ねられた質問に、ジェイミーは言葉を選びながら口を開く。
「……魔法の使えない人が、一緒に住んでいたからね。その人のために屋敷に電気を通したのがはじまり。結局のところ外部燃料に頼って、個人の魔力消費がない方が便利じゃない? だからそのまま使ってるんだ。地球のテクノロジーは面白いよ」
嘘は言っていない。地球人の非魔法族の父が母と内縁関係になってから、この屋敷には電気が通された。
「その、忌避感などはないんです?」
「無いよ。こっちのほうが性に合ってる。便利なものは取り入れるべきだ」
それに、電気がないと生活が成り立たないし。とジェイミーは心のなかで言葉を付け足す。
「先進的なんですね」
自分の分のコーヒーを淹れながら、カミラは嬉しそうな顔をした。
その表情を見て、少しの罪悪感が胸を突く。
「朝食はまだ?」
「ええ。これから」
「なにか軽く作るよ」
話題をずらし、ジェイミーはキッチンに立った。