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第4話 

 それからまた数日経って、俺は大学のレポートに追われていた。同じ曜日の授業で一気に課題が出されたので、全ての締切が差し迫っていたのだ。コツコツ終わらせておけばよかったものを、新しく出たゲームに寝食を忘れるくらいうつつを抜かしていたので、締め切り前日に三分の一しか手がついていない状態である。指定図書を読んで書かなければいけないレポートもあり、やたら小難しい文体の専門書をリビングのソファーで爆速で読んでいる最中だった。
 
 玄関のドアが開き、「ただいま〜」と声が聞こえる。いるねが帰ってきた。
 もうそんな時間か。まずいぞまだ半分も課題が終わってない。19時手前を指している時計を見て俺は焦る。
 廊下をパタパタ歩く音が聞こえて、リビングのドアが勢いよく開かれる。
「ガク! 見てこれ!」
「何~今忙しいんだけど」
 いるねは何やら興奮した面持ちで、スマホをの画面を俺に突き出す。
 いるねのYoutubeアカウントの登録者が1万人を超えていた。
「なんでこんなに増えてんの!?」
「ふっふっふー、実はね……やつあやさんとコラボ動画を出しました!」
「何それ俺見てないんだけど」
 机の上に置いたスマホを手繰り寄せて、俺はいるねのチャンネルを確認する。
「昨日の夜遅くに出したからね」
 いるねのチャンネルにあるやつあやとのコラボ動画は、後編と書かれており再生が7.4万回っていた。
「やつあやと動画で何話したの」
「私が体かりてる間の話とか、私から見たやつあやさんの家庭の話とか、本当に精神生命体なのかとか話したかな」
「なんでコラボしてくれたの? あれから連絡とったんだ」
「やつあやさん好奇心旺盛な人で、私がストーカーでもワンチャン面白いから通話してくれって言われて、それから本当にストーカーでも身内でもないんですって話してたら、面白いから動画撮ろうって話になって今に至るって感じかな」
「登録者少ないいるねのチャンネルにも動画出させてくれるなんて優しいね。うまみないだろうに」
「そこはまあ交渉しましたとも」
「やるじゃん」
「まあね〜これでチャンネル収益化達成よ!」
「お〜!!」
 俺はぱちぱちと手を叩く。
 いるねはにっこりと笑って目尻を下げた。
「……あとね、ここに居られるの今日が最後だと思う」
「え?」
 突然の言葉に俺は戸惑う。
「なんて言ったらいいのかな。体から引き剥がされるような、引っ張られるような感覚がするのよ。これが来たらもうそう長くはいられない。ギリギリまで引っ張って日中に勝手に乗り換わっちゃったら困るから、今日の夜中に乗り換えようと思う」
「そう、か……」
 いるねと過ごして約3ヶ月。長いようで短いその時間で、彼女が居ることが当たり前になりつつあったが、3ヶ月の制約が来てしまった。
「……」
 俺が何を言おうかと言い淀んでいると、台所から「ご飯できたよ~!!」という母の声が鳴り響く。
「今行く~」
 いるねはぱたぱたと台所の方へ行ってしまい、俺はソファーに取り残された。読みかけの本とノートPCを手に取り2階へ上がり、一旦課題は中断することにした。
 
 今日の夕飯は鍋だった。食卓に置かれたカセットコンロの上に大きな土鍋が置かれており、母といるねは席についてもう食べ始めている。
「父さんは?」
 ダイニングテーブルのひと席は珍しく空いており、そこは父の席だった。
「今日残業だから遅くなるって」
 母が豆腐を箸で掴むのに苦戦しながら返す。
「ふーん。いただきます」
「あんた課題はちゃんと終わりそうなの?」
「んー……まあ徹夜したら終わるだろ」
「もっと計画的にしなさいよ。徹夜できるのも若いうちだけなんだからね」
「へーへー」
 俺はネギと白菜と鶏肉を自分の器によそいながら生返事をする。
 母はいるねにパート先の同僚の話や看板犬の話をし、いるねはそれを楽しそうに聞いて自分の職場の話をした。3ヶ月を通しているねはすっかり両親と打ち解けて、敬語で話すのをやめていた。もうすっかりに見慣れた光景だったが、これも今日で最後か……。
 なんでもない日常の雑談が続き、父の食べる分を残して鍋の中身は減っていった。
「ごちそうさまでした」
 母は手を合わせて椅子から立つと、自分の使った食器を持って流しへ立った。いるねも「ごちそうさまでした」と席を立ち、食器を持って母の方へ行く。
「あのね、お母さん」
「なあに」
「私、明日には元の真彩さんに戻ってるから」
「どういう意味?」
 母は流しの水を流しっぱなしにして、いるねのほうをぽかんとした顔で見た。
「3ヶ月お世話になりました。お母さんの料理とっても美味しかったよ」
「真彩、」
「ありがとう、お母さん。私お風呂入ってくるね」
 いるねはにこりと笑うと、足早にキッチンから立ち去った。母はしばらくその背を不思議そうにぼんやり見つめていたが、洗い物を再開した。
 俺は食べるのが遅いので、マロニーをちゅるちゅるすすってその様子を見ていた。明日には姉が帰ってくる。その代わりに、いるねが居なくなり、設楽家に平穏な日常が戻る。全部が元通りになる。
 姉が居ないほうがいいのかと言われると、そんなことはない。大事な家族だ。だがいるねが居なくなってしまうことも、それなりに寂しかった。彼女は誰かの犠牲の上にしか存在する方法がない。難しいことだと思った。
 
「ごちそーさまでした」
 俺は手を合わせて席を立ち、食器を流しへ運ぶ。母がそれを受け取り、水につける。
「……さっきの真彩の話聞いてた?」
「うん」
「どういうことなんだろうねえ」
「さあ……明日になればわかるんじゃない」
「あんたさあ、記憶なくしてからの真彩のこと、真彩だと思う?」
「……」 
「お母さんは真彩には思えなくてね」
「うん」
 母は俺の方を見ていなくて、食器をスポンジで擦っている。
「自分が腹痛めて産んで育てたからわかるのよ。あの子は多分、別人だって」
「そう……」
「あんた達がなにか隠してるのも、なんとなく知ってる」
「……知りたい?」
「明日で終わるんでしょう」
「まあ……」
「だったらどっちでもいい。帰ってくるならそれでいいわ」
「うん……」
 俺はキッチンを後にして、自室へ上がった。
 まさか母があんなことを言うとは思わなかったが、やはり自分たちの親なんだなと思った。この3ヶ月間母はいるねと和やかに談笑していたが、腹の中では彼女が設楽真彩ではないと気づいていたのか。一体何を思いながら接していたんだろう。
 いるねがたくさんの人に、体の持ち主の親に傷つけられてきた事は話を聞いて知っている。
 それでも母はいるねの事を傷つけるような態度をとらなかった。うちの母親はやっぱりいい人なんだなと思った。
 
 俺は机の上に置いた本を手に取り、パラパラとページを捲る。あと数十ページで読み終わるので、要点をまとめてレポートにしなければいけない。課題図書があるのはこれだけなので、あとは文章を書きまくるだけだ。

 本を読み終わって、ノートPCのキーボードを叩いていると廊下から階段を登ってくる音が聞こえた。いるねが風呂から出たのだろう。俺も風呂に入らなければ。
 レポートをキリのいいところまで書いてから、風呂に入った。
 頭と体を洗ってから湯船に浸かり、「今日でお別れか……」と1人呟く。大きな水滴が張り付いている天井を見上げると、雫がひとつぽちゃんと湯船に落ちた。
 いるねとの3ヶ月、霊群ルキと直接会話したこと以外に特別なことはなかった。いるねが配信をしてそれを見て、投稿動画を一緒に考えて、姉の部屋に行ってぐだぐだ喋ったり、お互い別の作業をして黙っていたり。たまにゲームを一緒にやったり、そういう日々だった。頭に残っているのは取り留めのない会話ばかり。小学校の放課後のまま、友達が一緒の家に住んでいる感じだった。楽しかったと思う。
 俺はざぱあと湯船から上がった。バスタオルで体を拭き寝巻きを着て、ドライヤーで雑に髪を乾かす。
 2階の自室に上がり、ノートパソコンを小脇に抱え、姉の部屋をノックする。
「はーい」
  扉を開けるといるねはデスクの前に座っており、椅子をくるりと回して入り口に立っている俺のことを見た。
「課題ここでしていい?」
「いーよ」
 本棚の脇にある折り畳みの小さな机を組み立て、クッションを持ってきて床に座る。ノートパソコンを開いて、レポートの続きを俺はカタカタと書き始めた。
「……いるね何時くらいまでここに居るの?」
「うーん、3時くらいかな〜」
「そう……」
 沈黙が2人の間に横たわる。それは別に重苦しいものではなく、自然なものだった。俺がキーボードを叩く音と、いるねがマウスをクリックする音だけが部屋に響いている。
「ガクは何の課題してるの?」
「人格の境界線についてのレポート書いてる」
「へ〜どんな内容なの?」
「言って分かるかな……デカルト的二元論の限界とメルロ・ポンティの身体性の哲学とかをなんかいい感じに使ってまとめないといけなくて……」
「何言ってるのか全然わかんないや」
「だろうな」
「勉強楽しい?」
「まあそこそこ。やってて楽しいよ。まあこれが就職とかに使えるのかって言われると謎だけどな」
「将来の夢とかあるの?」
「何もない。今好きなこと勉強できたらそれでいい。就職は……まあ、就活始まったら考えるわ」
「案外計画性ないんだね」
「真面目に勉強だけやってれば、県内で一番良い大学入れたからな〜」
「東京とか行きたいと思わなかったの?」
「塾の模試とか見た感じ俺の学力だったら、それなりの大学入れそうだったけど、知らない土地で一人暮らしって大変そうじゃん。金かかるし。実家好きだから家から通えるとこで良いかなって」
「欲がないね〜」
「そうかな」
「学歴とかに興味なかったの?」
「うーん……別に……競争とか切磋琢磨とか、そういうの苦手だし、有名な大学出て有名な企業入って出世競争するより、テキトーな会社で緩く働いて金貰いたいかも。責任が重いのとか、忙しいのとか嫌いなんだよ。ゆっくりだらだら生きたい」
「頭いいのに勿体無いな〜」
「別に勉強が多少できるだけで、出来ることなんてそんなにないよ。あ、でも関東行けばイベントとかライブとか行きやすいのは羨ましいな〜」 
「まあ関東にそういうの集中してるからね。でも東京はごみごみしていて、ガクには合わないかも」
「そうかもな。いるねは次はどこへ行きたい?」
「ネットと配信環境あればどこでもいい。でもこれから寒くなるから北の方は嫌だな。寒いの嫌い」
「岡山の県南なんて、雪滅多に降らないからな。1回豪雪を体験してみたいよ」
「観光くらいにしときな。住むと雪かき大変だよ」
「確かに」
 
 いつもと変わらない会話をポツポツとし、時に黙り、また喋り、それを繰り返して時計の針は進んだ。

「課題終わりそう?」
 いるねはPCをシャットダウンして、ベッドに寝転んでスマホを眺めていた。
「うん。あと500字くらい書いたら終わる」
「じゃあ終わるまで待つか〜」
 ふとPCの時計に目をやると、時刻は3時手前を表示していた。
「……終わんなかったらさ〜、もうちょっと長く居てくれる?」
 俺はPCの画面から目を逸らさずに軽く聞いてみるが、「あはは、それは無理」と即座に返される。
「そっか〜……」
「あのさー」
「うん」
「また会いにくるからさ」
「……うん」
 いるねは身を起こして、俺の方を見つめる。
「その時私がどんな姿かは分かんないけど、私の事私だって信じてくれる?」
「信じるよ」
「やった。嬉しい。大人になってからちゃんと友達できたのはじめて」
 胡座をかいてにこにこと笑ういるねを、俺はまじまじと見つめ返す。
「俺のこと友達だと思ってんの?」
「友達でしょ」
「Vtuberとオタクじゃなくて?」
「オタクに向けるにしては、私たちを隔てる壁はないし、親密さと好意がデカいよ。だから友達」
「ふうん…………」
 俺は目を逸らして右斜め下の方を向いた。
「あ、照れてる〜」
 ケラケラと笑ういるねを少し睨む。
「うるさいな」
「は〜、ガクと出会えてよかったよ。本当に」
「はいはい」
「私に居場所をくれて、ありがとうね」
 しみじみと笑顔を浮かべてそう言ういるねを見て、じんわりと胸の内が温かくなる。
「どういたしまして」
「じゃあ、もうそろそろ行こうかなあ〜……」
 ぐんと伸びをして、いるねはベッドに倒れ込む。
「まだ課題終わってない」
「あともうちょっとでしょ。がんばれ!」
「次、いつ会える?」
「わっかんない。余裕ができたら。Discord交換したし、なんかあったら連絡するし、そう寂しがるなよ。今生の別れでもあるまいし。配信来たら声聞けるしさ」
「まあそうなんだけどさ〜……」
 俺はベッドのそばに寄って、いるねの顔を覗き込む。
「あ、次私がこっち来たら観光付き合ってよ。何だかんだ職場と家の往復しかしてないし」
「岡山何もないよ。岡山城か美観地区くらいしかない」
「じゃあそこでいいから。美味しいご飯屋さんとか探しといて」
「分かった」
「じゃあ、行くわ! 元気でね」
「おう」
「またね」
「またな」
 いるねが寝転んだまま俺に拳を突き出したので、右手を握ってコツンと当てる。
 いるねは目を閉じて、そのまま動かなくなった。
 俺はそれをじっと見つめて、10分くらい経ってからちょっと心配で頬をつついてみた。
「んぐ……むぅ……」
「…………」
「……んぐぐ……まーくん、なんしょん……?」
 眠そうに目をパシパシさせながら、姉が呻く。
「姉ちゃん……?」
「なんで私の部屋おるん?」
「いや……それは……」
「今何時……? 3時半じゃん……ホンマに何しょん」
「生存確認……」
「何それ」
「起こしてごめん。退散するわ」
「変なの〜。はよ寝えよ」
「おん」
 俺は机を片付けて、部屋の電気を消しPCを持って姉の部屋から出た。
 いるねは行ってしまった。設楽真彩の体は設楽真彩の物に戻り、俺といるねの繋がりはインターネットを介したものだけに戻ってしまった。
 
 次の配信告知は、いつだろうか。

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